宮崎より、神戸に発たれた杉木先生が、宮医ヨット部の歴史を綴ってくださいました。
ほぼ原文のままに載せさせていただきましたので、ご覧下さい。
(2005年5月執筆。部誌「沈」への寄稿より) 

思い起こせば昭和54年(1979年)に宮崎医大の6期生として入学してから26年の月日が流れたことになります。
  その間ヨット部現役時代はもちろん、卒業後も生理学の講議や実習を通してヨット部員と接することができたので、この長い歴史の中でヨット部全員の顔を知っているのは自分だけではないかと最後に少しだけ自慢してみたいと思います。ということで、今回はヨット部のヒストリーについて、特に創設期の頃を中心に思い付くままに書いてみたいと思います。
  何分昔のことなので記憶が誤って固定されている可能性があります。事実と違っていてもどうぞ笑ってお許しを。
 
宮崎医大ヨット部ができたのは1978年、本学5期生が作りました。
初代主将は丸岡喬先輩。山形県酒田市で御開業中とのことです。
最年長者だった丸岡先輩は非常に活動的で部員をグイグイと引っ張り、合宿所やヨットの手配、大学や県連との関係、西医体への参加など現在のヨット部の基礎をすべて作り上げた人です。とはいっても大学からレース艇を買ってもらえるなんていうのは数年後のことで、私が入学した当時はヤマハのY-15というとんでもなく重い4人乗りのレジャー艇(?)があるだけでした。
  まだ大堂津のハーバーはなかったので、練習は青島と白浜の間の折生迫にある県の水産試験場から出艇し、青島沖でしていました。現役部員の方々は大堂津より近くていいと思うかも知れませんが、外海なのでうねりが強く、ある冬の日には沈が起こせずに丸岡先輩と船にしがみついたまま沖に流されて漁船に救助されたこともありました(いま思えばちょうど北の船が青島沖で暗躍していた時に一致します。拉致されなくてよかったです)。
  また、ある先輩は県から借りた470に乗っているときにクルーが落水、そのまま一人で鬼の洗濯岩の方へ。直前に先輩も脱出し無事でしたが、船は打ち上げられて真っ二つに。観光客のおばちゃん達に「あらま、たいへんね」とか言われながら、青島神社の方から船の残骸を拾って帰った覚えがあります。
  それでもヨットが好きでした。群馬出身の自分にとってはきれいな宮崎の海で遊べるだけで幸せでした。だから授業のなかった水曜とか土曜日の午後、日曜日などちょくちょく練習していたような気がしています(?)。
 
 ちょうどその頃、某顧問の○山先生たち1期生の作った「ヨット同好会」も同じ場所で活動していたのですよ。先生達の船はヤマハのY-13「シカーラ」。Y-15よりスマートで軽くて速い船でした。
  同好会の方はよく女の子が一緒に乗っていてキャピキャピしていたような気がしますが(○山先生、ごめんなさい)、ヨット部は硬派だと言い聞かせて練習に励んでいました。
 
最初の西医体は1979年、琵琶湖でした。
2年生3人、1年生2人の計5人だったと思います。県から借りた470とスナイプを持って行って「いざ出陣!」と思いきや、広大の人に「宮医大さん、こんなん言ったら失礼やけど、ここの偽装間違ってるからこのまま出たら危ないでー」とか言われて、がっくり。
  レースの方はスナイプで山下良三先輩(宮崎市内で御開業中)と1日2レース、3日間出っぱなしだったため、疲れ果てた覚えしかありません。ただ、大きな大学の方々が船の積み降ろしなどを快く手伝ってくださり、「西医体はいいなー、いつかはこの人達と同じ土俵で戦えるようにがんばるぞー」と思った気がします。
 
 時は少しすすんで1980年代前半。
主将は同じ5期生の三尾泰司先輩(品川美容外科院長)へ。後輩に海津、日高など元気のいいのがたくさん入ってきて最初の黄金(?)時代を迎えます(とはいっても部員数は十数人、今よりはずっと少ないですが)。
  この頃には大学から470,スナイプや初代救助艇「スキップジャック(高崎二郎命名、トビウオの意味ですが、飛ぶというよりはむしろ沈む感じの船でした)」を買ってもらい、大堂津の合宿所もある程度自由に使えるようになって(以前は宮大、南九大が強かった)、クラブとしては一番まとまっていたような気がします。
  世間ではカラオケが流行りだした頃でしたが、よく飲みに行っては青信号の合間に一番街の交差点にみんなで寝転がって「宮崎医大ヨット部、ファイト!!」のエールを切っていました(今なら捕まるな)。
  また、この頃大学周辺では「医大のヨット部員と話をすると妊娠する」とか、「いーや、車を見ただけでもするらしいよ」というような噂を言われた時期もありましたが、男所帯だったせいでしょうか、硬派ヨット部に限ってそのようなことはなかったと今でも信じています(たぶんないよね?)。
  西医体の方は平均して470が13?14位くらい、スナイプが7?8位くらいでしょうか。結構速かったような気がしているのですが、気のせいかも?あと、うちのセールナンバーが1番なのは西医体で西か東から通し番号をつけようとなった時に三尾先輩が浜松か富山の主将とジャンケンして勝ったからなんですよ。今年は西医体優勝を目標に練習に励んでいるみたいなので、是非セールナンバーに負けないよう、上位進出を目指して下さい。
 
 その後ヨット部も人数が減った時期があり、「このままでは潰れる」と何度思ったことでしょう。その度に新入生がたくさん入ってくれて何とか続き、今では学内でも大きな部になっているのではないでしょうか。嬉しい限りです。
  長い間ヨット部に関わってきてずっと変わっていないのは、やはり大堂津の海、波しぶき、潮の香りでしょうか。誰もがあそこに帰った瞬間に昔の自分に戻れると思います。
 
最後に自分の知っていることとして歴代の主将を書いてみたいと思います(万が一間違っていたらごめんなさい。敬称略です)。
1: 丸岡 喬 
2: 三尾泰司 
3: 杉木雅彦 
4: 海津啓之 
5: 日高隆信 
6: 牧原真治 
7: 沓木章二 
8: 児島 洋 
9: 平松靖史 
10: 穴井慶太 
11: 岡本健二郎 
12: 宮田史朗 
13: 山家純一 
14: 山賀昌治 
15: 内村聡子(女性初)
16: 持田耕介 
17: 松本栄悠 
18: 古板規子 
19: 西垣啓介 
20: 佐々木満仁 
21: 大場祐輔(現主将)   ※2005年夏より現主将は、内村修司へ。
 
こうして見ると歴史を感じますね。時代は違っても同じ空間を共有できたことを本当に嬉しく思います。これからもヨット部がずっと続いてくれることを心より願っています。